ビートルズは、1960年代に綺羅星の如く現れ、音楽業界に革命をもたらしました。その影響力は音楽だけでとどまらず、世界を変革した存在と言われています。ビートルズの歴史は、ポピュラーミュージックの歴史にとどまらず、戦後の人類の歴史と言っても過言ではないでしょう。
そんなビートルズはイギリスの港町、リバプール出身。小さなライブ活動から始まった活動は、やがて社会現象となり、世界中を巻き込むものとなりました。世界的な成功、音楽的な革新、社会的な影響、その様子は、彼らの歴史を追うことでより鮮明に感じられます。ここでは、彼らのデビューから絶大な人気、そしてその後の音楽的変遷まで、ビートルズの劇的な軌跡を紐解いていきます。
デビューと初期の成功
リバプールから世界へ:デビューシングル「Love Me Do」の誕生
1962年10月5日、ビートルズのデビューシングル「Love Me Do」がリリースされました。シンプルながらもキャッチーなメロディーは、ポールマッカートニーによるもの。聴く人を惹きつける新鮮なハーモニーとリズムが魅力の楽曲です。
イギリスで最高位17位とまずまずの成功。ともあれこの曲で、ビートルズはリバプールから世界へと羽ばたく第一歩を踏み出しました。そして翌年の1月。ビートルズは一気にイギリス中から注目を集めることになります。
2枚目のシングル「Please Please Me」のリリースです。大きなヒットを記録します。アップテンポでエネルギッシュなこの曲は、あっという間にチャートを駆け上がり、大ヒットを記録します。ミュージシャンが曲を作ること自体が珍しかった当時、デビュー曲から2作連続でヒットチャートに送り込んだビートルズ。彼らのソングライティングの才能が広く知られるきっかけとなりました。
スタジオでの熱気が伝わる!デビューアルバム『Please Please Me』
シングル盤の「Please Please Me」がヒットする中、1963年3月にはデビューアルバム『Please Please Me』がリリースされました。わずか12時間でレコーディングされたというこのアルバムは、スタジオでのライブ感がそのまま伝わるような熱気溢れる作品。
アルバムのタイトル曲「Please Please Me」や「I Saw Her Standing There」は、彼らのエネルギッシュな演奏と多才さを象徴する作品です。このアルバムには、今でも多くのファンを魅了する作品が収録されています。特に注目したいのは、レコーディングの最後に録音された「Twist and Shout」です。ジョンレノンが声を張り上げ、若さと情熱を爆発させた一曲として知られています。
このアルバムはイギリス中で大ヒットを記録。なんと30連続1位を記録するほど。ちなみに31週目にこのアルバムから1位を奪ったのはビートルズのセカンドアルバム『With The Beatles』です。ともあれ、アルバム『Please Please Me』の成功により、ビートルズはイギリス国内で若者を中心に圧倒的な支持を集める存在となりました。
社会現象へ!「She Loves You」の大ヒットとビートルマニア
1963年8月にリリースされたシングル「She Loves You」は、さらに大きなインパクトを与え、ビートルズの人気は社会現象へと発展していきます。「Yeah, Yeah, Yeah」という印象的なコーラスは、若者たちの心を掴み、ビートルズは新しい音楽スタイルやファッションを代表する存在として、若者文化の中心へと躍り出ました。
しかし、この時点でのビートルズの名声は、イギリスを中心にヨーロッパに限定されていました。全世代に受け入れられる存在となるには、アメリカです。U.S.Aを制覇してこそ。イギリス人として誰一人として成し得ていないこの偉業にビートルズは果敢に挑戦します。
1964年、ビートルズは、「I Want to Hold Your Hand」を引っ提げてアメリカに上陸します。上陸をきっかけに、ビートルズの人気はあっという間に幅広い層に広がり、「ビートルマニア」と呼ばれる熱狂的な人気が世界中で巻き起こることになります。
ビートルマニアの到来
世界が熱狂した日:ケネディ空港での歓迎
1964年2月7日、ビートルズがアメリカ・ニューヨークのケネディ空港に降り立ったとき、そこには数千人のファンが待ち受けていました。空港は、まるでロックコンサート会場のような熱気に包まれ、悲鳴や歓声が渦巻いていました。まるで王族を迎えるようなこの様子は、後に「ビートルマニア」と呼ばれる社会現象の始まりでした。
「I Want to Hold Your Hand」が大ヒットしていたこともあり、ビートルズはすでにアメリカでも大人気。彼らの登場は、若者たちの心を揺さぶり、音楽シーンに革命を起こしました。ビートルズの音楽だけでなく、ファッションや髪型、考え方まで、若者たちは彼らを模倣し、新しい文化を築き上げました。
ビートルマニアはアメリカにとどまらず、瞬く間に世界中に広がっていきました。ビートルズの音楽は、国境を越えて人々の心を一つにし、若者たちは共通の価値観や目標を持つようになったのです。彼らの成功は、音楽が単なる娯楽を超え、社会を動かす力を持つことを証明したのです。
エド・サリヴァン・ショーへの出演
ビートルズがアメリカで一躍スーパースターの地位を確立した瞬間といえば、2月9日に出演したエド・サリヴァン・ショーです。第二次世界大戦以降、文化的な転換があった日はいつかと問われれば、間違いなくこの日です。
この日この時、番組の視聴者数は7000万人を超え、全米の家庭にビートルズの音楽と魅力が届けられました。視聴率は当時の歴代最高を記録し、放送後には若者たちがビートルズの髪型やファッションを真似し始めるなど、その影響は瞬く間に拡大していきました。一説によると、ビートルズの出演時間帯は若者による犯罪が発生しなかったのだとか。
「I Want to Hold Your Hand」や「She Loves You」といったヒット曲が人気を後押しし、アメリカ中でビートルズ現象が巻き起こりました。ファンたちはビートルズが出演するテレビ番組やコンサートの情報を追いかけ、ニュースでも彼らの活動が連日報道されるようになり、ビートルズの名前は瞬く間に全米に広がりました。
映画と音楽の融合:『A Hard Day's Night』の大ヒット
さらに1964年7月6日、ビートルズ初の主演映画『A Hard Day's Night』が公開されました。この映画は、ビートルズの忙しいツアー生活や、メンバー同士のユーモラスなやりとりを描いたもので、彼らの素顔を垣間見せる内容がファンの心を捉えました。
また、音楽と映像が見事に融合し、単なる映画以上に新しいエンターテイメントの形を提案する作品として高い評価を受けました。この映画により、ビートルズの魅力はより幅広く広がり、ビートルズ現象はさらなる拡大を見せました。映画の主題歌である「A Hard Day's Night」も大ヒットを記録し、映画と音楽の相乗効果で彼らの人気はピークに達しました。
音楽を超えた存在へ:MBE勲章の授与
ビートルズが音楽を超えた象徴的存在となったもう一つの出来事として、1965年10月26日のMBE(大英帝国勲章)授与が挙げられます。この年、ビートルズはエリザベス女王から直接MBE勲章を授与されます。これはビートルズの社会的影響力がいかに大きかったかを物語る瞬間でした。
当時、ロックやポップスが王室から認められることは画期的であり、ビートルズが単なるミュージシャンではなく、イギリスの文化とアイデンティティの象徴として評価された証でもありました。
この授与は、保守的だった一部の層からは批判を受けたようです。わけのわからん音楽グループと一緒にされてはかなわない!」そう言って、勲章を返上する誇り高き歴代の叙勲者が続出。その数はなんと863人にものぼったのだとか。そうした返上者に強烈な皮肉を言ったのが我らのジョンレノンです。
「奴らは戦争で人を殺して勲章をもらったんだろ。俺たちは人を楽しませて勲章をもらえることになったんだから、俺たちのほうがもらう資格はある。」
一部のわからず屋からの批判はあったものの、多くのファンにとっては彼らの地位を象徴する誇り高き出来事として受け入れられました。
時代を象徴するアイコンへ:ビートルズの遺産
このようにして、1964年から1965年にかけてビートルズはアメリカ進出や映画出演、さらにはMBE勲章の授与など、数々のエピソードを通して国内外で絶大な人気と影響力を築き上げていきました。ビートルズは若者のアイコンとしてファッションやライフスタイルにまで影響を及ぼし、音楽を通じて文化を変革する存在として歴史に名を刻むこととなりました。
ビートルズの音楽は、若者たちの心を捉え、社会に大きな変化をもたらしました。彼らの楽曲は、愛や平和、自由といった普遍的なテーマを歌い上げ、多くの人の心を揺さぶり、また勇気を与えました。ビートルズは、音楽を通じて、若者たちに自分たちの考えを声に出すことを促し、社会を変革する力を持つことを教えてくれたのです。
ビートルズが活躍した1960年代は、社会変革の大きなうねりが起きていた時代です。ベトナム戦争や公民権運動など、世界中で様々な問題が噴出していました。そんな時代の中で、ビートルズの音楽は、若者たちの心の支えとなったのかもしれません。ビートルズは希望を与えてくれていたのです。
音楽スタイルの進化
フォークロックとの出会い:『Rubber Soul』
ビートルズが世界的な人気を獲得し、音楽シーンを席巻する一方で、彼らは自分たちの音楽をより深く、そしてパーソナルなものへと進化させていきました。特に、1965年のアルバム『Rubber Soul』以降、彼らの音楽は劇的な変化を遂げ、単なるポップミュージックの枠を超えた、より芸術性の高いものへと昇華していきます。
この変化の大きな要因の一つが、ボブ・ディランの存在です。ディランは、フォークミュージックに詩的な要素を融合させ、当時の音楽シーンに新たな風を吹き込んだ人物でした。彼の歌詞は、社会に対する鋭い批評や、内省的な心の動きを率直に表現しており、多くのミュージシャンに影響を与えました。
ビートルズ、特にジョンは、ディランの音楽に深く感銘を受けました。ディランの詩的な歌詞や自由なリズム感は、ジョンにとって大きなインスピレーションとなり、『Rubber Soul』に収録された「Norwegian Wood」のような、より複雑で感情豊かな楽曲を生み出すきっかけとなりました。
ビートルズとボブ・ディランの出会いは、単なるミュージシャンの出会いの範疇を越えるものでした。それは、音楽の歴史において、非常に重要な出来事の一つと言えるでしょう。ディランは、ビートルズに新たな可能性を示し、ビートルズは、ディランの音楽を吸収し、それを自分たちの音楽へと昇華させることで、音楽シーンに革命を起こしました。
フォークとロックの融合:ポールの多様性
一方で、ポールもフォーク要素を取り入れながらも、彼自身の持ち味であるロックンロール的なリズム感を融合させ、彼の音楽的幅をさらに広げていきました。「Michelle」や「I'm Looking Through You」といった楽曲は、フォークとロックの境界線を越えることで、新しいスタイルを生み出すことに成功しています。
また「Drive My Car」では、グルーヴィーなリズムと印象的なベースラインが特徴的で、ビートルズの音楽がよりダイナミックになっていることが感じられます。ポールの多彩な音楽性は、『Rubber Soul』全体に独自のバランスをもたらし、アルバムを魅力ある作品に仕上げています。
サイケデリックな世界へ:『Revolver』
1966年、ビートルズは『Rubber Soul』で見せた変貌に飽き足らず、次作のアルバム『Revolver』で、音楽の可能性を大きく広げました。このアルバムでは、サイケデリックと呼ばれる、夢を見ているような不思議な世界観を音楽で表現する試みがなされています。
特に「Tomorrow Never Knows」は、その代表的な曲と言えるでしょう。テープを繰り返し再生したり、逆再生したりといった実験的な録音技法を用い、なんとも言えない不思議な感覚を聴く人に与えます。例えて言うならお経。この曲がビートルズ!?選手権があったら1位になる曲です。
音楽の可能性を広げたのは、ジョンだけではありません。我らがポールマッカートニーもまた、このアルバムで自身の作曲能力の幅広さを示しています。例えば、「Eleanor Rigby」では、クラシック音楽を取り入れたストリングスアレンジと、孤独な老女を描いた歌詞が見事に融合し、ポールのバラード作りの才能が光ります。
「Yellow Submarine」では、子供向けのシンプルな歌詞と陽気なメロディで、聴く人を笑顔にするような楽曲を提供しています。この曲では、ポールのポップな側面が際立っています。この曲、最近になってジョンレノン作説が出てきました。これは別の機会に考えてみたいと思います。
このように、『Revolver』では、ジョンとポールの両方が、それぞれの個性的な楽曲を発表しました。彼らは、サイケデリックな実験から、ポップな楽曲、そしてバラードまで、幅広い音楽に挑戦し、ビートルズの音楽の多様性をさらに深めたのです。
ビートルズはこの時期、音楽の新しい可能性を切り開くアーティストへと成長しています。彼らの音楽は、後のミュージシャンたちに大きな影響を与え、現代の音楽にもその影響が見られます。ビートルズが作った音楽は、時代を超えて多くの人々に愛され続けているのです。
最後のコンサートとスタジオへの移行
ライブ活動の限界:過激なファンと音響設備
1966年、ビートルズのライブパフォーマンスは、かつてない困難に直面していました。世界的な人気は絶頂期を迎えていましたが、それに伴い、ファンたちの熱狂は度を超え、危険な状況を生み出していました。コンサート会場は常にパニック状態となり、ステージに飛び乗ろうとするファンや、暴徒化する群衆など、メンバーの安全を脅かす事態が頻発していました。
また、当時のスタジアムやアリーナは、大規模なロックコンサートに対応できるような音響設備が整っていませんでした。そのため、観客席まで音が届きにくく、メンバー自身も満足のいく演奏ができずにいました。
サンフランシスコ・コンサート:最後のステージ
こうした状況の中、1966年8月29日、ビートルズはサンフランシスコのキャンドルスティック・パークで最後の公式コンサートを行いました。このコンサートは、過激なファンの熱狂と、音響設備の限界を象徴するようなものでした。メンバーたちは、歓声と騒音の中で演奏し、ライブパフォーマンスの限界を感じていました。
ビートルズがコンサート活動をやめた理由をひらたく言うと、
「うるさい!もうやめた」
スタジオへの移行:新たな音楽世界の探求
ライブ活動の困難さを痛感したビートルズは、スタジオでの活動に重心を移す決断を下します。スタジオでは、観客の視線や騒音から解放され、音楽制作に集中することができました。彼らは、レコーディング技術を駆使し、実験的なサウンドを追求することで、新たな音楽の世界を切り開いていくことに夢中になっていきます。
レコーディング技術の革新:音楽の深化
スタジオでの作業は、ビートルズの音楽に大きな変化をもたらしました。彼らは、オーバーダビングや逆回転奏法などの効果音を駆使し、複雑で立体的なサウンドを作り上げました。また、レコーディング中に曲の構成を何度も変更したり、楽器の演奏方法を工夫したりするなど、自由な発想で音楽制作に取り組むことが可能になりました。その録音技術を駆使して完成させたのが、あの超大作です。
『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』と文化的影響
コンセプトアルバムの誕生と物語性
1967年6月1日にリリースされた『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は、ビートルズの革新性と実験的精神を象徴する作品として、音楽の歴史に金字塔を打ち立てました。
このアルバムは、単なる楽曲の集まりにとどまらず、従来のアルバム制作の概念を覆す「コンセプトアルバム」としての完成度を備え、リスナーを別世界へと誘う独自の物語性を構築しています。「サージェント・ペパーズ」という架空のバンドが主人公として登場し、彼らがライブを行うという設定がアルバム全体を通じて描かれ、楽曲ごとに違うキャラクターの視点が織り交ぜられています。
このアプローチは、従来の「アルバム」という形式に物語性と芸術性を持たせ、リスナーを新たな聴覚体験へと引き込みました。
音楽とサイケデリックな世界観
「Lucy in the Sky with Diamonds」では幻想的な歌詞と、音楽が作り出す夢に漂っているような世界が融合し、当時のサイケデリック文化を強く反映しています。この楽曲はジョンが、息子ジュリアンの描いた絵からインスピレーションを得て作っています。
リバーブがかけられたギターやオルガンの独特な響きが楽曲を彩り、アルバム全体の神秘的なムードを強調しています。聞く人に異次元の体験を提供しているこの曲。当時噂で流れたのが、曲の頭文字をとると、怪しい薬物の名前になるというもの。ジョンもポールも否定していますが、果たして真相は如何に!私は、意図したものだと思っています。
『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』の世界観を構築している「A Day in the Life」はアルバムのフィナーレを飾る壮大な楽曲です。日常的な情景と深い哲学的テーマが複雑に絡み合い、現実と夢の境界を曖昧にするようななんとも言えない世界観を作り出しています。
この曲では最後に大音量のオーケストラが響き渡り、ドラマチックな終焉を迎えるという斬新な構成が特徴です。音楽的な表現のみならず、リスナーの感情にまで訴えかけるエネルギーを備えています。
視覚的な革新とアートとの融合
さらに『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は視覚的な面でも新しい試みを展開しています。アルバムカバーには、ビートルズの4人が歴史的な著名人やフィクションキャラクターとともに並ぶコラージュが使用され、当時のヒッピー文化やサイケデリックアートを象徴するデザインとして大きな話題となりました。
デザインはイギリスのアーティストのピーター・ブレイクとその妻によって手がけられ、ポップカルチャーとアートの境界を超えた先駆的な作品として評価されています。このジャケットは、アルバムそのものがひとつの芸術作品であるという認識を広め、音楽と視覚の融合が一体化した芸術表現を提示しました。
後世への影響と音楽業界への貢献
『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は、コンセプトアルバムの先駆けとして、後続のアーティストに計り知れない影響を与えました。アルバムの一貫した物語性や、アーティストがひとつのテーマを掲げて作品をまとめる手法は、その後の音楽制作において新しいスタンダードとなりました。
例えば、ザ・フーの『トミー』や、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』といった作品なんかも、コンセプトアルバムの形式に影響を受けていると私はにらんでおります。こうした影響を受けた作品からも、さらに洗練されたテーマ性を持つ作品が次々と生まれることとなりました。
商業的にも『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は爆発的な成功を収め、アルバムは現在までに、全世界で3000万枚くらい売り上げたと推定されています。1960年代後半の売上記録は今ほど詳細ではないため実際にどれだけ売り上げたのかは不明ですが、当時のアルバム販売記録を大きく塗り替えたのは事実のようです。
このアルバムは批評家からも絶賛され、1967年にはグラミー賞を受賞。最優秀アルバム賞ほか4部門を獲得するなど、音楽業界での評価も確立しました。これにより、ビートルズは単なる音楽グループを超えた文化的なアイコンとして、アート、ファッション、社会にまで影響を与える存在となったのです。
音楽史における『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』の意義
1967年に発表された『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』は、ビートルズが音楽的実験の究極に挑んだ作品であり、彼らの芸術的な野心を示す一大傑作でした。このアルバムは、単なる音楽アルバムの枠を超えて、サウンド、ビジュアル、物語が一体となった芸術作品として位置づけらています。当時のアナログ録音技術を限界まで駆使し、サウンド・エフェクトや重層的なオーケストレーション、スタジオでの創意工夫を活用して、前例のない音楽的な世界を作り上げました。
初のコンセプトアルバムであること、収録されている楽曲がもつ不思議な世界観、ジャケットのアートワークなどの革新性は先に述べたとおりです。ポップカルチャーとカウンターカルチャーが融合したこのアルバムは、ひとつの芸術作品としてとらえられています。
このアルバムは、当時のリスナーやアーティストに大きな影響を与えただけでなく、今もなお音楽史における重要な作品として位置付けられています。ロックが真に「芸術」として認識される契機となり、数十年を経てもなお、他のミュージシャンやクリエイターにインスピレーションを与え続けています。
終わりなき革新と『ホワイト・アルバム』のリリース
『Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band』の成功後
ビートルズはインドへ渡り、マハリシ・マヘーシュ・ヨギのもとで瞑想修行を行います。この時期にメンバーは内面的な変化を経験し、それが「ホワイトアルバム」制作時の彼らに影響を与えました。しかし、インドから戻ると、それぞれのメンバーが異なる方向性を持つようになり、バンド内に分裂傾向が見え始めます。
ビートルズが、グループとしてのまとまりから、メンバーそれぞれが自分の音楽や表現を重視するようになっていきます。この変化は、音楽だけでなく、彼らの関係やバンドの結束にも影響を与えました。『The Beatles(通称ホワイト・アルバム)』では、各自がバンド外の活動に関心を向け始め、のちのビートルズ解散へと続く伏線にもなりました。
多面的で実験的な音楽性
1968年11月22日にリリースされた『The Beatles(通称ホワイト・アルバム)』は、ビートルズが音楽的探求を深める中で、彼らの多面的な才能と個性を前面に打ち出した作品です。
全30曲にわたるこのアルバムは、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴがそれぞれの音楽的ビジョンや実験的なアプローチを思いのままに披露した結果、ロック、ブルース、フォーク、バラード、さらにはアバンギャルドなどのジャンルが混在するカオスと魅力に満ちた作品に仕上がりました。少しだけ、個別に見ていくことにしましょう。
ジョンレノン
アルバム収録の「Revolution 1」や「Revolution 9」は、ジョンの政治的な思想やアバンギャルドな音楽表現への興味が反映されています。特に「Revolution 9」は、サウンドエフェクトやテープループを駆使した抽象的なコラージュで、ビートルズの音楽が単なるポップを超えたアートであることを象徴しています。また、ジョンは「ジュリア」などの楽曲で自身の内面と母親への思いを素直に歌い上げ、その詩的で感情的な表現が印象的です。
ポールマッカートニー
一方で、ポールは「オブ・ラ・ディ、オブ・ラ・ダ」や「ブラックバード」といった楽曲で親しみやすくもメロディアスな側面を発揮。ポールは本来のロックンロールから出発しつつ、音楽的な幅を広げ、社会問題や人間の内面に触れる深い歌詞を作るまでに成熟しました。「ブラックバード」では、アメリカの公民権運動を暗示する内容も含まれており、アコースティックギターの繊細な音色とともに聴く者に深い印象を与えています。
ジョージハリスン
ジョージは「ホワイトアルバム」での存在感を一層強め、「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」ではエリック・クラプトンをギタリストに迎え、感情的なギターソロとともに自分の葛藤や哲学的な視点を表現しています。この楽曲はビートルズの作品の中でも特にエモーショナルで、人間の内面的な苦悩を描き出すジョージの力量が感じられます。
制作過程とメンバー間の関係性
『ホワイトアルバム』の制作過程では、メンバー間の意見の対立や緊張が増していたと言われています。スタジオでのセッションでは喧嘩もあったようで、リンゴが一時的にバンドを離れるという事件もありました。
そんな雰囲気だからか、メンバーそれぞれが個別にレコーディングを進めることも多かったようです。この時期のビートルズの音楽がまさに「個」としての表現を求める段階に入っていたことを示唆しています。このため、アルバム全体に統一感は薄く、むしろ多様性と自己表現の奔流がそのまま形になったと言えるでしょう。
アルバムは発売と同時に大ヒットし、商業的にも大きな成功を収めましたが、同時に「カオスの美学」とも評されるその多様な構成が物議を醸しました。これはビートルズにとっても新たなチャレンジであり、既存の音楽の枠組みを超えるこのアルバムによって、ビートルズは「アートの枠を広げる存在」としての評価を確立するに至ります。
『ホワイトアルバム』は、ビートルズが、一人一人が独自の音楽的アイデンティティを持つアーティストであることを示した作品であり、彼らの音楽的革新と創造力が最も色濃く反映されています。このアルバムは、ビートルズのメンバーがそれぞれの探求心と音楽性を存分に発揮し、時代を越えて評価され続ける名作となっています。
解散とその後の影響
解散の背景と最後のアルバム
ビートルズが1970年に解散した背景には、複雑で多層的な要因が絡んでいました。特に1967年にマネージャーのブライアン・エプスタインが急逝したことで、ビートルズ内部の経営と方向性が不安定になりました。彼の死後、メンバーは自分たちの経済面やビジネスに深く関わることを余儀なくされましたが、その管理方針について意見が対立し、特にポールと他のメンバーとの間で大きな亀裂が生じました。
また、音楽的にもそれぞれが異なる方向性を模索していたことも、解散を後押した要因だと思います。ジョンはオノヨーコとのコラボレーションに重きを置くようになり、個人的な表現や社会的メッセージを追求することを望んでいました。
ポールはビートルズの活動継続を希望していたものの、他のメンバーが個別の音楽探求へ向かう中で孤立を感じていたと言われています。ジョージも自身の創造性が高まっており、ビートルズの枠を超えた活動に意欲を示していました。
最後のアルバム『Abbey Road』と『Let It Be』
ビートルズが一つの時代を締めくくるようにリリースしたアルバム『Abbey Road』は、1969年9月に発売されました。このアルバムは、メンバー間の摩擦がある中でもビートルズが一体となって作り上げた音楽の集大成といえる作品です。
収録曲「Something」はジョージが作曲し、彼の才能を再評価させる代表作として、ビートルズ解散後も多くのアーティストにカバーされ続けています。また、「Come Together」はジョンのユニークな音楽的スタイルを象徴する一曲であり、ビートルズのサウンドの多様性と成熟度が際立っています。
ビートルズが最後にリリースしたのが『Let It Be』です。ポールの脱退が報じられた後の1970年5月にリリースされました。『Let It Be』が公式には最後のアルバムとされていますが、実際には1969年初頭にレコーディングされたものであり、実質的なラストアルバムは『Abbey Road』というのが定説です。
ともあれ、『Let It Be』には、バンド内の緊張感がそこはかとなく反映されていました。この作品の発表は解散後となったため、ビートルズの終焉を象徴するアルバムとも捉えられています。ビートルズの解散は単なる音楽バンドの終わりではなく、一つの文化的現象の幕引きでもありました。
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